嬉しいね♪ お客様の私物ジュエリー・石を使用したリフォーム

はい、今日はリフォーム のお話です。
リフォームってなんか 家とかそういうイメージの言葉ですよね。
リペアは修理。
あ、話的にはなんだかまとまんない感じになりました(追記)

この手の仕事をする人が、今はなかなかいないんです(昔もですね)

さかのぼること20歳前後、、
いやあれは、19くらいの頃、たまたま母がですね、知り合いのおっさんが「カバンや」やっているから

市役所やなんとか省とかに 物を売りに行く(いまもあるのかなあ)職業のことを言うんですが、
あんた昔から きれいな石とか好きだったから 習ってみたら?と、、
当時の母は まあ、最強の遊び人だったので、知り合いはたくさんいた。
今のように精神疾患になる直前ですね。
その老夫婦のもとで半年くらい、もちろん無報酬でその世界を勉強したんです。
これが、じつはボクがジュエリー・貴金属の世界にはいるきっかけなんです。

そのうちに、自分で御徒町に買い付けに行って(資金ないので安いシルバーを)
自分一人で市役所や農林水産省などに行き、手続きして フロアで他のカバン屋さんたちと
机を借りて販売してみたんですよ 笑

カバンやはジュエリーだけではなく、お菓子やコーヒー豆 下着などさまざまです。
ボクみたいな茶髪ロン毛のガキはいませんでしたね 笑
そんな輩から お堅い公務員が買うわけがない。笑

行き詰っていた時に たまたま地元に越してきた ジュエリーの原型師の記事(生徒募集的な)を見て、
直ぐに行きましたよ。
3年後に、自信がついてきたところで、当時関東でシルバージュエリー系ではトップの会社
タイムレ〇というところに単身営業に行って、色いろなブランドさんの仕上げ の仕事から

貰えるようになったんです。それをきっかけに 個人事業登録したんですね。
Since1999    はGRIM という屋号の個人事業を登録したと年なんです。

当時ボクは茨城の土浦というところで一人暮らしして、仕事場もかねて 生活してました。
相手さんの工房は墨田区にあって、少し年上くらいの男職人3人とジムのおばはんがいて、、
解らないことは 車でしょっちゅう行って、聞いて、その足で御徒町にいって工具買って、、
そんな勉強の日々。
師匠は原型師なので制作は上手でしたが、仕上げとかはあまり得意ではない、、なので
ボク自信も あるいみカルチャーショックなことばかりです。

若い時分なので ムカッときて、口調が荒くなったりもした。
でも、現実を知ると、自分が間違っているのに気がついちゃう。。。苦笑
その苛立ちはきっと、、今思えば自分の不甲斐なさゆえなのか、、

ゆっくりと仕事が増えていきます。
すると、ある日工房に言った時に、
その工房のトップの30歳手前の 背がすらっと高く、いつもくそ暑いのに長袖着ている(まあ腕に彫り物びっしり

なのでですが、うちの業界はそんな人も多いですね)
V6のイノッチに似た人が、(ま~この人がまた怒ると怖いんですわ 笑 でも普段は
凄く穏やかで 朝まで一緒に呑んだ時もありました)

「中村君さあ、、ぼちぼち仕上げ以外の仕事してみる? 修理とかやってくんないかなあ?」
と、、、
「え?修理って 作るのはとにかく修理ですか??」となりますね。

「うん。大丈夫大丈夫、たぶん中村君 器用だからできるとおもってさ。しかもね、
うち修理ホント多いから、結構稼げるよ?」
。。。と。

それはありがたいな、、(単純)と思いましたね。
なんせ、その時はその収入だけでは危険だったので ガテン系のバイトもしてましたので。

フタを開けて見たら、案の定 すさまじい数のジュエリーの修理 を
ボクは一手に引き受けるまでになりました。

ローリーロドキ〇 ライオンハー〇 A&G など百貨店や路面店もある人気国外ブランドから
国内のブランドの、、、、修理!を。
なんでこんなにあるの?ってくらい。
それは、メーカーさんや作家さんは作るのだけはして、後の事(修理など)は考えていない、、
つまりできないんですよ(@3@;)
あの当時の日本は おしゃれ度も世界一だったかもですね。シルバーアクセも流行っていたのもあって、
百貨店には様々なシルバージュエリー ファッションジュエリーのブランドが参入していた。

伊勢丹や丸井 その他もろもろ、、、その会社が手掛けているブランドの修理を、、なんとも

ボクが一人で行っていたのは、実はすさまじい体験でした。

一か月3~400個、、この修理をこなしていた人間・ジュエリー関係者はおそらく今も昔もいません。

かなり特殊でしたので、、、
鼻をかんだら真っ黒なくらい、、とにかく毎日修理、、クロムハーツなどの特殊なものも
「業者価格」で、、行っていましたね。

つまり、安い工賃でやっていたので、そんなに仕事していて、その給料かい!

って感じでしたっけ、、、笑
ライオンさんのところの営業担当の同じ歳の人が茨城の工房に来て、仲良くなって、
呑み行って、、その時に

「中村さん も~東京きちゃえばいいじゃないですか!」
って言われたときに、

あ、、そうだよな、、ってすぐに足立区の一軒家借りて住み始めたんですね。

その後 まさかあんな不況が来て、大手さんからの順調な仕事が一気に激減。
親のこともあって 都内を離れた、、でも案外それは正解だった、、結果論ですけどね。

伊勢丹や丸井、全国の百貨店の、、アルページ〇や ラブ&ヘイ〇 マテリ〇 もうなくなってしまったブランドたち。
イヤって程修理しました。サイズ直しからチェーン切れ、石入れ直し、ペアリングの文字入れ、 まるで
象にでも踏まれたようなリングの修理(今はどこもやらないですきっと)。。
実際にその数をやるわけですので、最初の数年は特に、何度も品物を破壊してしまい、、
その都度 工房に行き 平謝り。そして
弁償、、、苦笑

「中村君さあ!修理でお願いしているのに壊して帰ってきたら元も子もないよねえ!!」と

イノッチに怒られたっけな、、笑
【ごもっとも…】と内心痛いところつかれてつぶやきましたよ。

修理はリスクありまくりなんだから仕方ないだろうよ、、
って心の中でさけんだもんです。

そのうちに修理や制作なども、何社か抱えてましたが、OEM業も終りを告げた30代、、その頃から
違う視点で攻めないと食っていけなくなるって感じてましたので、、
30代後半なのかな、、生産販売に切り替えていった、少しずつシフトチェンジしていきました。
また一からやり直し、、事業としては継続ですがね、、
知らないことばかり、、でも

あの数万点の修理や制作を経験したからかな、、
自信はあったんです。

今思うと、あの流れでは・・彼女作って イチャイチャなんて、、している時間も余裕もなかった、、
それに対して疲れてしまうのは目に見えていたんですね。
女のこの友達は多かったんですよ。

でもそういう関係にはならなかった。

ふう、、あの時の未曾有の職人としての経験値が
今のボクを支えている栄養源になるなんて。。。

色々な事があって枯れそうになったときもあったんですが、希望は
捨てきれなかった。
修理もそうでしたが、相手の喜ぶ顔や反応は、、大変うれしいものです。

一時の快楽とは全く別次元の、、快感ですね。

最近も30号でカレッジリングのオーダーが女性からあり、、
他のブランドでは絶対受けませんが、もちろん引き受けました。
でも、、結構珍しいサイズなので、念のため聞き直します。

すいません、それで間違いないので、

との返答で、しまったな。お客様にすいませんと言わせてしまった。
いやいや、0,5号なんて人もいたり、33号(サイズ棒では計測不可能)なんてのもあった。
身体的な特徴は、それもまた個性。
いや、理由があったりもしますね。なので、数千、、いや下手したら万のサイズ直しをしてきた
自分には何も気にならないのです。

納品したら とても喜んで頂けて、自分へのご褒美に サイズが豊富なのでうれしかった。
またご褒美にはお願いしたいです  とのことで。。。

【嬉しい、ねえ、、、】
うれしいね、、、
心の奥から出た言葉。

うれしい、、ね。
やっててよかった ね。

これでいいんだな。喜んでもらえる幸せ、、自分にも勇気と希望を与えてくれる栄養源です♪

あ、長くなってしまった。
2つの写真も喜んでいただけました(^v^)

日本一マルチにこなすジュエリー職人です!

ではでは、そんな思い出話?な内容でした♪
GRIM Works jewelry  Since1999 :中村裕也

 

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